♪ 孤独をいつの間にか寂しがりやと勘違いして

 例えば、AさんがBさんに対して、「オレ、あんたに対して怒ってることあるんだよね」 と言ったとする。言われたBさんには全く心当たりはないのだが、『自分が自覚していないうちにAさんを不愉快にさせるようなことをしてしまっていたのだとすれば申し訳ないな』 という思いで、「何を怒ってるのか分からないけど、もし僕が君を不愉快にさせてしまったのだとしたら謝るよ。ゴメンね」 と言う。

 現実にも時々あり得るシチュエーションだろうと思うのだが、私には、このBさんの態度が許せない。そして、恐らく、私のこの “Bさんの態度を許せない” という思いは、ほとんど誰の共感も得ることが出来ない。

 “謝罪” というのは、自らの非を認めることである。「何を怒ってるのか分からないけど・・・」 という発言は、自らの非に気がついていない、非を認めていない、ということの証左に他ならない。自らの非を理解していないにもかかわらず “謝罪” する、即ち “自らの非を認める” と表明するのは、自家撞着である。

 この場合のBさんの謝罪は相手を不愉快にさせてしまったという “事実” に対してのものであり、自分に非があったかどうかの認識とは別問題なのだという意見もあるかも知れない。だが、もし自分には非はなかったと思うのであれば、仮に相手が不愉快になったという “事実” があったとしても、その “事実” に対して謝罪する必要はない筈だ。Bさんとしては、「あなたは、私が〇〇と言った (〇〇という行動に出た) ということに対して怒っているようだが、私のあの発言 (あの行動) は、これこれの理由により正当なものであるから、私は怒るあなたの方が間違っていると思う」 と主張すべきなのだ。それをせずに、自らの非を理解していないにもかかわらず “謝罪” するBさんの態度は、『何か分からんけど、このオッさん怒っとるわ。ごちゃごちゃと五月蠅いから、とりあえず謝っとこ・・・』 という態度に他ならない。つまり、Aさんをテキトーにあしらっている、本気で相手にはしていない、ということの表れなのだ。

 BさんにAさんを重んじるつもりがあり、Aさんと真摯に向き合うつもりがあるのであれば、“何か分からんけど、とりあえず謝まっとこ” などという態度は取らない筈だ。相手が何を怒っているのかも理解出来ていないのに謝罪するのは、私に言わせれば無責任以外の何ものでもない。私は、無責任に口先だけで謝罪されるよりは、真っ向から反論される方を望む。


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♪ あぁぁぁ 後ろ姿は他人でも

 連日茹だるような暑さが続いているが、確実に日が暮れるのは早くなっている。先日、今年初めて赤トンボを見た。秋の気配を感じるとまではいかなくとも、夏はもはや後ろ姿を見せ始めている。


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♪ 「見捨てないでね」 「捨てはしないよ」 北風が泣いて吹くギリギリの私

 どういう訳か、今年は我が家でゴキブリを全く見かけない。「何言うてんねん! ゴキブリなら、今、ブログ書いとるやないけ!」 と曰うなかれ。私が言っているのは、“ゴキブリおやぢ” のことではなく、本物の “ゴキブリ” のことである。

 もはやゴキブリにさえ見捨てられたということか・・・。


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全地全農

 “生まれ変わり” などというものがあるのだとかいうことらしく、で、一体何のために人は生まれ変わるのかというと、“魂の成長” のためなのだとかなんだとかいうことらしい。

 もしそれが本当であるなら、では、一体全体なぜに生まれ変わると前世の記憶を失ってしまうのか (一部、前世の記憶を保持しているという例外らしきものはあるのだとかいう話らしいが)。

 人間は “学習” によって成長する。せっかく前世でいろいろな経験を積んで学習したのに、それを忘れ去ってしまえば、また一から経験し直さなければならなくなる。“魂の成長” のために生まれ変わるにもかかわらず、“成長” に資するべき大事な経験を放棄するなどというのは全くもって不合理としか言いようがない。

 もし、“魂の成長” のための “生まれ変わり” という不合理なプロセスを神が創り賜うたのであれば、神という存在はきっとバカに違いない。もし本当に存在するのであれば “全知全能” であるべき筈の神がバカだということは、それは真の神ではないからであり、我々が “神” と信じているものは所詮は人間が造りだした存在に他ならないということの証左である。


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さよなら

 久しぶりに、高校の同級生が数人集まって飲み会。

 つい先日、同級生の一人が亡くなったという。膵臓癌だったとか。周りの者よりひときわ大きな体格をしていたため、当時、“ウド” という渾名で呼ばれていた。言うまでもなく、“ウドの大木” から来ているが、クラブで主将を務めていたくらいだから、慣用句の意味はそのままには当てはまらない。

 気だてのいいヤツだった。一部の友達連中からは軽んじて扱われているような傾向がなきにしもあらずだったけれど、それは偏に彼の人の良さに起因するものだったと思う。

 高校卒業後も、進んだ大学は違っていても、お互い同じスポーツのクラブに所属していたこともあって、対外試合や合同稽古の場などで何度か会う機会があった。いつも、大きな体格に似合わなぬ小心さを隠すために、精一杯虚勢を張っていたようなところがあった。

 おまえは、いいヤツだった。特に親しくしていたというわけではなかったけれど、俺はおまえが好きだった。さよなら。安らかにと願っている。


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