上田清司埼玉県知事の発言に想う

 msn 産経ニュースによると、「埼玉県の上田清司知事は1日、入学式など式典の国歌斉唱の際に起立しない教員について、『日本の国旗や国歌が嫌いだという教員は、辞めるしかないのではないか』 と述べた」 とのこと。記事中には、「県教育委員会によると、式典で国旗掲揚と国歌斉唱を生徒に指導することは、学習指導要領で定められている」 ともあり、更には、「上田知事は答弁で、こうした教員のいる学校名を公表すべきとの考えを示した上で、『ルールに従い模範を示すべき教員が、模範にならないようではどうにもならない』 と述べた」 と続く。

 これまで学習指導要領なんか読んだことがなかったから、試しに調べてみたところ、下記のような記述が見られた。学習指導要領の最初から最後まで隈無く読んだわけではないので見落としがあるかも知れないが、その場合にはご寛容を願いたい。

幼稚園教育要領
 幼稚園内外の行事において国旗に親しむ。
  ※ 国歌に関しては記述なし

小学校学習指導要領
中学校学習指導要領
高等学校学習指導要領
 入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。

盲学校、聾学校及び養護学校幼稚部教育要領
盲学校、聾学校及び養護学校小学部・中学部学習指導要領
盲学校、聾学校及び養護学校高等部学習指導要領
 国旗・国歌に関して記述なし

 msn 産経ニュースの記事内で埼玉県教育委員会が 「式典で国旗掲揚と国歌斉唱を生徒に指導することは、学習指導要領で定められている」 と言っているのは、どうやら小、中、高等学校に関してだけらしい。幼稚園についてはその対象年齢から考えて単に 「親しむ」 という表現に留めたのは分からないでもないが、盲学校、聾学校及び養護学校の小学部・中学部・高等部の学習指導要領には同様の規定がないのはどうしてなのだろう。これは盲、聾、養護学校の生徒に対する一種の “差別” なのではないのか。msn 産経ニュースは、上田清司埼玉県知事の発言を記事にするくらいなら先にこの点を問題にすべきなのではなかったのか。ことは “人権問題” である。全国に盲学校、聾学校及び養護学校の小学部・中学部・高等部に在籍している生徒がどれくらいの数いるのか知らないが、少なく見積もっても恐らく何千の単位にはなるだろう。一人の県知事が何を言ったかより、何千人の生徒の人権問題の方がよほど重要な問題の筈だ。← msn 産経ニュースのバランス感覚について疑問を呈しているだけです。「盲、聾、養護学校の小学部・中学部・高等部の学習指導要領に国旗・国歌についての規定を置くべし」 と主張しているのではありません。小、中、高等学校の学習指導要領と盲、聾、養護学校の小学部・中学部・高等部の学習指導要領とのバランスを図るのであれば、前者から国旗・国歌についての規定を削除するべきだろうと考えます。

 話を小、中、高等学校の学習指導要領だけに限定したとしても、学習指導要領で定められているのは、“国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導する” ことである。教師が国歌斉唱の際に起立することまでもを規定している文言は見あたらない。「生徒に国歌斉唱を指導する以上、教師は当然起立すべきだ」 という声も聞こえてきそうだが、そもそも学習指導要領は、国歌斉唱の際に生徒に起立することを求めてはいない。生徒が着席したまま国歌を斉唱しても構わないのであれば、教師だけが起立しなければならない理由は見出し難い。

 このように、学習指導要領は国歌斉唱の際の起立について何も定めてはおらず、ましてや、教師個人に対して “国旗や国歌を好きになれ” などとは一言も言っていない。常識的に考えても、そんなことを学習指導要領で決められる筈もない。繰り返しになるが、上田埼玉県知事は、「日本の国旗や国歌が嫌いだという教員は、辞めるしかないのではないか」 と述べたという。一体全体なぜ、旗や歌が嫌いだと教師を辞めなければならないのだろう。真ん中に赤い丸印を描いた白い布きれが好きか嫌いかということと国家に対する国民としての義務を真っ当に果たしているかどうかということとの間には、何の関連性もない。教師としての能力との間についても然りである。

 恐らく上田清司埼玉県知事は日本の国旗や国歌がお好きなのだろう。彼は、自分が大好きな国旗や国歌に対して自分と同じ方法で敬意を払わない人間がいることが許せないのだ。国旗や国歌は嫌いだけれど敬意は十分に払っているとか、国旗掲揚や国歌斉唱の際に起立しようとは思わないが愛国心はちゃんと持っているという人間も大勢いるのだということが理解出来ないのだ。彼は 「ルールに従い模範を示すべき教員が、模範にならないようではどうにもならない」 と発言したとのことだが、なにも彼の流儀どおりにやることだけが “模範” なのではない。

 ※ 本記事は、上田清司埼玉県知事の発言を “非論理的” と感じたことを動機として書いたものです。特定の思想信条を持った教師を支持したり彼らに心情的に肩入れしたりする意図はありません。


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死後に自由 (4×5=20)

 17日の投稿にコメントを頂いたので、もう少し追加しよう。

 人間の思考や感情がどのようなメカニズムで発生するのかについては、専門的な知識を持ち合わせていない私のような素人が論じてみてもあまり建設的な話になるとは思えないので、これ以上は立ち入らない。ただ、一つ思うことは、精神と肉体の二分論のような発想はどこか違うような気がするということなのだ。

 例えば、我が国の歴史上キリシタンが弾圧された時代において肉体的拷問に耐えかねて信仰を棄てたといったような場合に、“精神が肉体に負けた” というような見方をすることがある。これは、精神と肉体を別々のものだと考えていることが前提になっているのだろうと思う。あるいは、男女の恋愛感情を肉体的な関係を伴うものとプラトニックなものに分けるとかいった場合にも、同じように精神と肉体を分けて見ている視点が感じられる。

 “肉体的苦痛に負けて信仰を棄てた” とか “肉欲に溺れた” などという表現があることからして、先の2つの例はいずれも、精神を肉体より崇高なものと考えているように思われる。“負ける”、“棄てる”、“溺れる” といった表現は負のイメージを伴う言葉だし、信仰を棄てた者が周囲から軽蔑の目で見られ、本人も自責の念に責められ続けることからも、それが裏付けられるだろうと思う。これらの例以外でも一般に、肉体が世俗的なものの代表格であり、精神が清らかなもの、崇高なものの代名詞のように思われている面がありはしないだろうか。

 17日にも書いたが、「肉体と精神は不可分のものであって、生前はもちろん死後にも、その二つ或いはどちらか一方が分離して存在することはない」 と考えている。例えば電球に灯りが点いているとき、灯りは電球が機能した結果現れた現象であり、電球と分離して (電球が存在していないのに) 灯りだけが存在するということはあり得ない。同じように、人間の思考や感情といった精神作用は肉体の生理現象の一つであって、肉体が存在していないのに精神作用だけが存在するということはあり得ない。灯りをともすためには、電球に限らずとも何らかの光源が必要なのだ。

 このように考えると、肉体が消滅した後に魂だとか霊だとかいったものが肉体とは別個に存在して、それが “死後の世界” に行くなどということはあり得ないことになる。もちろん上述したことは、「肉体と精神は不可分のものであって、それらが分離して存在することはない」 ということが前提になっている。この前提が崩れれば結論も異なってくるが、その場合には、肉体という主体を離れて精神作用のみが存在出来るメカニズム (電球の例で言えば、光源が存在していないのにどのようにして灯りだけが存在出来るのかというメカニズム) が説明されなければなるまいが、精神作用が肉体から生じるものでないのであれば、一体全体、脳は何のためにあるのだ !?


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思索も大小便も同じこと

 “肉体は魂の容れ物に過ぎない” という考え方があるようだが、私はそうは思わない。

 魂とか心とかいった精神活動は、肉体の一部である神経細胞や脳細胞の中を流れる単なる “電気信号” に過ぎないのではないのか。生物学や化学に関する基礎的な知識が全く欠如しているので見当外れなことを言っているのかも知れないが、要は精神活動も肉体の反応の結果に過ぎないのではないかというようなことを言いたいのだ。

 精神活動が単なる肉体の作用に過ぎないのであれば、肉体なしに精神は存在しない。人間の一般的な傾向として、精神が肉体よりも尊いものであるかのように考えがちであるが、それは精神が肉体のように視覚で捉えることが出来ないが故の錯覚でしかない。

 肉体を離れて精神が存在しないのであれば、“肉体は魂の容れ物に過ぎない” という命題は成立しない。中身は容れ物から出しても存在出来る筈だからだ。死によって肉体が滅びれば、その反応でしかない精神活動は当然に滅びる。肉体と精神は不可分のものであって、生前はもちろん死後にも、その二つ或いはどちらか一方が分離して存在することはない。

 “私が私である” と考えているこの “私” は肉体であり、同時に精神活動である。私に肉体的 “死” が訪れたとき、“私が私である” と考えている “私” も終焉を迎える。“私が私である” と考えることが出来なくなった “私” は、もはや肉体ですらない。そこには、肉体もなく、精神も魂も存在しない。残るのは、“私” がいなくなった世界のみ。


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蟯虫処置

 調べものがあってネット検索をしているときに、たまたまヒットしたある行政書士事務所のホーム・ページ。トップに 「交通事故専門の行政書士 〇〇事務所」 とあった。“交通事故専門の行政書士” ねぇ・・・。この行政書士さんは、交通事故を起こして廻る専門家なのだろうか。それとも、交通事故に巻き込まれる方の専門家か。いずれにしても、物騒なことこの上ない。^^;

 ご本人は、“交通事故に関連する諸事務手続き専門” と言いたいのだろう。まぁ、読む側が気を利かせれば、察しが付かなくはないけれど・・・。それでは、読み手の能力に負んぶに抱っこである。

 行政書士さんというのは、「他人の依頼を受け報酬を得て、官公署に提出する書類その他権利義務又は事実証明に関する書類を作成することを業とする」 (行政書士法第1条の2) ご職業らしい。“書類を作成することを業とする” ご職業なのであれば、もう少し日本語に対するデリカシーというものがあっても良さそうに思う。


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冤罪完了進行形

 毎日 jp によると、「足利事件を巡って最高検の伊藤鉄男次長検事が謝罪したことについて、釈放された菅家利和さんは10日の会見で 『警察、検察は私の目の前でちゃんと謝罪することです。裁判官も同じです。絶対に許さない』 と語った」 とのこと。ご本人の胸中を察すれば、当然だろうと思う。私が菅家さんの立場なら、釈放になった途端に先ず金属バットを買いに走る。

 死刑擁護論者がその根拠とする主張の一つに、“他人の命を奪った者は、自らの命で償わなければならない” という趣旨のものがある。では、万一、無実の者を冤罪で死刑にしてしまった場合、捜査に関わった警察関係者や公判手続きに関与した検察関係者、死刑判決を書いた裁判官は、自らの命をもって何の咎もなく処刑された者の命を償ってくれるのだろうか? 一般市民から選ばれた裁判員はどうだ? “犯人憎し” との世論を煽ったマスコミ関係者も同罪ではないか。死刑制度存続に賛成した者はどうなのだ?

 他人の命を奪った者は自らの命でそれを償わなければならないのであれば、冤罪事件に関わった者は、その命をもって、濡れ衣の汚名を着たまま死んでいった者に償わなければなるまい。“仕事だから” というのは言い訳にはならない。

 たとえ何万、何十万の極悪人をみすみす生き長らえさせることになったとしても、一人の冤罪で死刑になる人間を救う社会でなければならないと思う。

 注:菅家利和さんが冤罪のため服役していた刑は無期懲役で、菅家さんは死刑囚ではありませんでしたが、この記事は “冤罪” の連想で書いたものです。


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